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2008年3月26日 (水)

関の山・・・

この前「土筆」の写真を取り上げ日記を書きました。
その時は、土筆を見つけるのさえ苦労したのですが、暖かい陽射しの中、あちこちで土筆が顔を出し、すくすくと背をのばしています。

私の住んでいるところから、わりと近くに関宿があるのですが、「灯台下暗し」というように、その関宿が、東海道五十三次の宿場町の中でも古い町並みが未だに残っているめずらしい宿場町であることを最近知りました。

それまでは、私の好きな京都へ行く時の通り道ぐらいの気持ちしかなくて、たまに宿場町から少し離れた国道1号線沿いの「道の駅 関宿」に立ち寄る程度のものでした。


その関宿が東海道53次の中で唯一昔の町並みが残された地区として、重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けていると知って、改めて訪ねてみることにしました。


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実際に行ってみると、馬籠のような観光スポットではないので、観光客もそんなに多くはありませんでしたが、道に降り立って町並みを眺めて見ると、なるほど時代劇にでてきそうな町並みが並んでいました。

関宿は東海道53次の日本橋から数えて47番目の宿場町です。
江戸時代には人口が約1900人、本陣が2つ、脇本陣が2つそして42件の旅籠があったそうです。
行ってみてまず驚いたのが、銀行や郵便局が町の景観を損なわないように町並みに合わせたような外装になっていたことです。
そんなことから、関町を挙げて町並みを保存していこうという意気込みがよくわかりました。
実際に行ってみてわかったことがたくさんありました。
関宿は東西約1.8キロの宿場町なのですが、東の入り口は京都へ向う東海道と、伊勢詣でをする人の通る伊勢別街道の追分になっていました。
伊勢別街道へ曲がる道には鳥居が立っていて、その鳥居は20年に一度伊勢神宮の遷宮の時に宇治橋の南詰の鳥居がここに移されるという由緒のあるものでした。

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(東の追分の鳥居 伊勢神宮より移されました)
 

また、西の入り口は東海道と大和(奈良)の国のお寺を詣でに行くための大和街道との追分になっていました。

宿場町の東西の入り口が共に別街道への追分になっているというのはめずらしいそうです。
だから当時は大名行列や伊勢参りの人々で賑わいをみせていた宿場町なのですね。

町並の中には2件の資料館がありました。

1つは「関宿旅籠玉屋歴史資料館」です。
ここは、当時「関に泊まるなら、鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と言われた、関宿を代表する旅籠「玉屋」を資料館として修復整備したものです。

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(「虫籠(むしこ)窓」)

        
外観からしてとても風情のある建物でちょうど二階にあるこうし窓がユニークな形をしていて「虫籠(むしこ)窓」と呼ばれているそうでとても印象的でした。

資料館の中には、当時旅籠で使われていた道具類や庶民の旅に関係する歴史資料などを展示していて、とても興味深かったです。
特に面白かったのが、江戸時代の頃からもうすでに今でいうガイドブックにあたる本「旅の用心集」をまとめた本があったことでした。


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昔の人にとって、旅は最大の楽しみだったでしょうね。
もう一つの資料館は「関町並み資料館」です。
こちらは江戸末期の町屋建築の一つを資料館として整備したものです。
当時の庶民の生活を紹介する箱階段など、庶民が使っていた道具類が展示されていました。
受付の女の人がとても気さくな方で「入り口が京都と同じように狭いでしょ?うなぎの寝床と云われる建て方をしているのですよ。間口の広さで税金を決めていた当時の税金対策でしょうね」などと親切に案内してくれました。


最後にそこで得た知識をもうひとつ・・・

みなさんが今でも使われる「関の山」という言葉がありますね。
それは、関町のお祭に繰り出した山車がたがいに華美を競い合い狭い関宿を練り歩いたところから、「これ以上のない精一杯の」という今使われる言葉の語源になったそうですよ。

今の私には、関の良さを紹介するのは、これくらいで「関の山」
といったところです^^


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